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【最終回】大河ドラマ『べらぼう』蔦屋重三郎に学ぶ、危機を物語に変え、文化を“続く仕組み”にするマーケティング

作成者: 大住 浩章|2025/12/16 0:00:00

NHK大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は、第48話を最終話として、全48話の物語に幕を下ろしました。江戸の出版文化を舞台に、蔦屋重三郎という一人の版元の挑戦を描いてきた本作は、最終盤において「どう成功するか」ではなく、「危機と終わりにどう向き合い、何を残すのか」という、より深く、現代にも通じる問いを私たちに投げかけます。

第47話「饅頭こわい」と最終48話「蔦重栄華乃夢噺」は、その問いに対する最終的な答えが示される二話です。
47話で描かれる崩壊や混乱は、突発的な悲劇ではなく、これまで積み重ねられてきた選択や無理、希望と緊張が一気に表面化した結果であり、48話ではそれらを引き受けた先で、蔦重が何を未来へ託したのかが描かれます。

本記事では、この二話を通して、江戸時代の出版文化と現代の広告・マーケティングを重ね合わせながら、ブランドや事業は最終局面で何を語り、どのように次へ引き渡されるのかを読み解いていきます。

 

参考・引用:大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」 - NHK
https://www.nhk.jp/p/berabou/ts/42QY57MX24/
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1.第47話「饅頭こわい」



あらすじ

曽我祭の夜、浄瑠璃小屋に集められた一座や関係者の前に、祝いの差し入れとして饅頭が振る舞われます。しかしそれは毒入りであり、場は一瞬にして混乱と恐怖に包まれます。祭の高揚は一転し、「何が起きたのか分からない」地獄絵図へと変わっていきます。

同じ頃、大崎が変死体として見つかり、仇討ちに関わった側が一気に潰された形となります。蔦屋重三郎は、相手にすべてを読まれていたことを悟り、耕書堂を閉めざるを得ない状況へ追い込まれます。奉公人たちは命の危険を感じ、次々と離れていこうとします。

さらに巳之吉にも毒の影響が現れ、蔦重は「自分が仕掛けたことで身内を死なせかけた」という、取り返しのつかない罪悪感と向き合うことになります。しかし蔦重は、ここで撤退ではなく発想の転換を選びます。
相手が“毒”という象徴的な手段を使ったなら、同じ象徴領域で決着をつけるしかない。そう考え、徳川家斉を巻き込み、一橋治済を追い詰める策を松平定信に持ちかけていきます。

 

現代に通じるポイント(第47話)

1.毒饅頭に見る「アンチ・キャンペーン型ストーリーテリング」

江戸時代の課題と対応策
毒饅頭は単なる殺害手段ではなく、「仇討ち側は愚かで危険だ」という物語を江戸中に広げるための象徴装置でした。血や刀ではなく、あえて“饅頭”という日常的なアイテムを使うことで、事件は強烈なワンフレーズとして人々の記憶に刻まれます。

蔦重の「毒には毒を」という決断は、相手が作ったネガティブな物語を否定するのではなく、その意味を奪い返し、「毒を使った側こそ裁かれる」という新しいナラティブへと書き換える試みでした。

現代の課題と対応策
現代の炎上や風評被害も、一つの言葉や象徴がブランド全体を定義してしまいます。そこで求められるのは、沈黙や全面否定ではなく、ネガティブワードそのものを再定義する“アンチ・キャンペーン”的発想です。

江戸時代と現代の比較
江戸では毒饅頭、現代では炎上ワード。
違うのは媒体だけで、「物語の主導権をどちらが握るか」という構造は変わりません。

2.クライシス時に露呈する「心理的安全性」の重要性

江戸時代の課題と対応策
毒饅頭事件の直後、耕書堂では奉公人たちが「ここにいたら命が危ない」と怯え、組織が一気に瓦解しかけます。賃金や理念以前に、“生存リスク”が上回った瞬間、人は去っていきます。

現代の課題と対応策
現代企業でも、不祥事やスキャンダルが起きた際、最初に崩れるのは売上ではなく心理的安全性です。情報開示や説明責任を怠れば、離職や取引停止が連鎖します。

江戸時代と現代の比較
江戸は命の危険、現代は精神的・社会的リスク。
組織が崩れる引き金は、いつの時代も「ここに居続けていいのか」という不安です。

3.ステークホルダー再編としてのトップダウン転換

江戸時代の課題と対応策
町人ネットワークを軸に動いてきた蔦重は、第47話で将軍・家斉を直接巻き込むトップダウン型の再編へ踏み込みます。中間にいる定信だけでは限界だと見切った判断でした。

現代の課題と対応策
現代でも、現場改善だけでは解決できない構造問題があります。その場合、最終意思決定者やガバナンスそのものを動かす設計が不可欠です。

江戸時代と現代の比較
ボトムアップかトップダウンか。
重要なのは手法ではなく、「どこで構造が詰まっているか」を見極める視点です。

2.第48話「蔦重栄華乃夢噺」

 

あらすじ

一橋治済は連行の途中で逃走を図るものの、雷鳴と豪雨の中で力尽きます。かつて江戸を裏から支配していた存在は、みすぼらしい姿で終わりを迎え、長く続いた歪んだ構造はここで断ち切られます。

時代が進み、病を抱えた蔦重はなおも出版の指示を出し続けます。本居宣長の学問書など、すぐには売れなくとも「今出すべき本」を世に送り、十返舎一九や曲亭馬琴といった次世代の書き手を後押ししていきます。

吉原では価格崩壊が進み、蔦重は「新吉原町定書」を作り、産業のルールそのものを作り直そうとします。集客ではなく、仕組みを立て直す判断でした。
やがて蔦重は「蔦屋」という名を誰に託すかを明確にし、人・書物・ルールという形で未来へと事業を引き渡していきます。

 

現代に通じるポイント
 

1.蔦屋に見る「ロングテール型ブランド戦略」

江戸時代の課題と対応策
晩年の蔦重は、単発ヒットよりも、継続的に読まれる書物群=蔦屋の“棚”を育てることに力を注ぎます。作品単体ではなく、ブランド全体への信頼を軸にした設計です。

現代の課題と対応策
これは現代のサブスクやレーベル買いと同じ構造です。話題作と同時に、後から効いてくるアーカイブを厚くすることで、長期的な価値を積み上げます。

江戸時代と現代の比較
江戸の蔦屋棚、現代のコンテンツプラットフォーム。
単発ヒットからロングテールへという発想は、時代を超えて共通しています。

2.ルールメイキングによる市場再設計

江戸時代の課題と対応策
吉原の価格崩壊に対し、蔦重は町定書によるルール再設計を選びます。一事業者ではなく、市場全体を支える設計者として振る舞う決断でした。

現代の課題と対応策
現代でも、市場が混乱したときは施策よりも規約や分配ルールの見直しが求められます。

江戸時代と現代の比較
集客ではなく制度。
市場が壊れたときに何を直すか、という判断軸は変わりません。

3.人生そのものを“没入型コンテンツ”にする編集力

江戸時代の課題と対応策
蔦重は老いや病、別れや継承までも物語として編集し、自身の人生を一つの完結した体験として残します。

現代の課題と対応策
現代では、展示・イベント・ドキュメンタリーなど、プロダクトを超えた体験設計がブランド価値を高めます。

江戸時代と現代の比較
物語を“観る”から“生きる”へ。
体験価値をどう設計するかという発想は、今も変わりません。


 

3.第47話・第48話から読み解く現代企業の戦略的示唆

  
 

危機はブランドを壊すが、物語を書き換える余地でもある

第47話で起きた毒饅頭事件は、蔦屋耕書堂というブランドにとって、最悪の形での危機でした。人が倒れ、仲間が離れ、「蔦屋の周りは危ない」という物語が江戸中に広がっていく。これは単なる被害ではなく、ブランドの文脈そのものが奪われる瞬間でもあります。

しかし蔦重は、この状況を「黙って耐えるべき炎上」とは捉えませんでした。相手が毒という象徴を使って物語を作ったのであれば、その象徴の意味を奪い返し、別の文脈に置き直すしかない。蔦重の「毒には毒を」という判断は、危機を帳消しにするのではなく、危機そのものを物語の転換点に変える発想だったといえます。

現代のブランドにとっても、炎上や不祥事は避けられないリスクです。しかし、そこで問われるのは「失敗しないこと」ではなく、「起きてしまった出来事を、どの文脈で記憶されるか」を設計できるかどうかです。第47話は、危機対応とは謝罪や沈黙だけでなく、物語の主導権を取り戻す行為であることを、極めて象徴的に示しています。

単発ヒットより、続く棚・続く文脈を育てる

最終話・第48話で描かれる晩年の蔦重は、もはや「次のヒット作」を追いかけていません。黄表紙や書物を一冊ずつ売るのではなく、蔦屋という版元そのものを信頼してもらい、「次もここから読む」という行動を育てることに力を注いでいます。

これは、単発ヒットを積み上げる戦略から、文脈を買ってもらう戦略への転換です。蔦屋の棚には、すぐに売れる本もあれば、後から評価される本もある。それらが並ぶことで、「蔦屋から出るものなら間違いない」という期待が形成されていきます。

現代のマーケティングでいえば、これはサブスクリプションやロングテール戦略と同じ構造です。話題作だけで顧客をつなぎ止めるのではなく、アーカイブや過去作を含めた“続き”をどう設計するか。第48話は、ブランドが時間を味方につけるための考え方を、静かに提示しています。

事業は個人ではなく、仕組みとして残す

蔦重の最期に向けた行動で印象的なのは、「蔦屋」という看板をどう継ぐかを明確にし、人と役割を整理していく点です。自分がいなくなった後も事業が続くように、編集の判断、企画の考え方、人のつなぎ方を“属人化させない形”に整えていきます。

これは、創業者の存在感が大きい企業ほど避けて通れない課題です。カリスマがいなくなった途端に組織が機能しなくなるのか、それとも「誰がやっても回る仕組み」として残るのか。その分かれ道が、事業承継の成否を決めます。

第48話で描かれる蔦重の姿は、「自分の代で終わらせない」ための編集作業そのものです。ブランドを残すとは、名前を残すことではなく、判断の型や価値基準を次に渡すことなのだと、この最終話は教えてくれます。

プロダクトを超えた体験設計が、最終的な価値になる

第47話・第48話を通して印象的なのは、蔦重の人生そのものが、一つの「体験」として編集されていく点です。成功だけでなく、失敗や病、別れ、引き際までも含めて、一貫した物語として残されていきます。

これは、商品や作品単体ではなく、「その人やブランドと関わることで、どんな時間を過ごせるのか」を設計する発想です。現代でいえば、展示、イベント、ドキュメンタリー、ファンコミュニティなど、プロダクトを超えた体験価値がブランドを支えるケースが増えています。

最終話で描かれる蔦重の姿は、まさにその完成形です。
作品を売る人から、文化や体験を残す人へ。
第47話・第48話は、マーケティングの行き着く先が「売り方」ではなく、どんな体験を社会に残すかであることを、静かに示しています。

 

おわりに:二つの話からの戦略

――「終わり方」を設計するという、最も難しい仕事

第47話と最終話・第48話は、蔦屋重三郎の成功や栄華を総括するための回ではありません。
むしろ描かれていたのは、危機にさらされたとき、そして自分が去るときに、何を残すのかという、最も重く、最も避けがたい問いでした。

毒饅頭という出来事は、蔦屋というブランドを一瞬で危機に陥れました。仲間は倒れ、人は離れ、「蔦屋の周りは危ない」という物語が広がっていく。第47話で描かれたのは、どんな事業やブランドにも起こり得る“信頼の崩壊”です。しかし蔦重は、その危機をなかったことにしようとはせず、物語を書き換えることで引き受けようとしました。危機とは、単に守り切るものではなく、意味づけ直されるものでもある──その姿勢が、最後まで貫かれていました。

最終話では、蔦重はもはや「売れるかどうか」だけを基準に動いていません。書物、人、吉原のルール。自分がいなくなったあとも価値が生まれ続けるよう、土を耕すように仕組みを整えていきます。そこにあるのは、短期の成果を誇る態度ではなく、次の世代が迷わず歩ける地面を残そうとする仕事でした。

現代のマーケティングや経営においても、私たちはしばしば「どう始めるか」「どう伸ばすか」に意識を向けがちです。しかし『べらぼう』が最終盤で示したのは、「どう終えるか」「どう引き渡すか」まで含めてこそ、ブランドや事業は完成するという視点でした。
ヒットを出すこと、注目を集めること、それ自体が目的なのではなく、価値が続く構造を社会に残すことが、本当の仕事なのだと。

全48話を通して描かれた蔦屋重三郎の姿は、華やかな成功者というよりも、最後まで編集者であり続けた一人の商人でした。人の才能を見つけ、物語を編み、場を整え、そして自分自身の人生さえも編集して終える。その姿は、時代を越えて、私たちの仕事の在り方に静かな問いを投げかけています。

『べらぼう』はここで幕を閉じます。
しかし蔦重が残した「価値をどう語り、どう渡すか」という編集思想は、現代の広告・マーケティング、そして経営の現場でも、これからも繰り返し参照されていくはずです。
終わり方まで設計すること──それこそが、蔦屋重三郎が最後に示した、最も高度な戦略だったのかもしれません。

 

あとがき:この連載を読んでくださった皆様へ

NHK大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』の放送に合わせ、本連載では約1年にわたり、蔦屋重三郎という人物を、江戸時代の出版史にとどまらず、現代の広告・マーケティング、そして事業やブランドの在り方と重ね合わせながら読み解いてきました。

この連載を始める直接のきっかけとなったのは、弊社が所蔵する、引札をはじめとした江戸時代からの広告・商業資料群――いわゆる「増田コレクション」の存在です。
引札は単なる古いチラシではなく、当時の人々の感情、流行、商いの知恵、そして“どう伝えれば人は動くのか”という問いが凝縮された、極めて実践的なマーケティング資料でもあります。

また弊社では、東京都のプロジェクトとして、引札をモチーフにした商品開発・販売や、引札および江戸以降の広告資料の展示会の企画・運営にも携わってきました。そうした実務を通じて強く感じたのは、江戸時代の広告や文化には、まだ十分に知られていない価値と、現代にも通用する面白さが数多く眠っているということでした。

『べらぼう』という作品は、その価値を物語として、視覚として、そして感情として伝えてくれる、またとない機会でした。本連載は、ドラマを起点にしながら、引札や浮世絵、出版文化といった実際の史料や取り組みと重ね合わせ、「もっと多くの人に知ってほしい」「もっと楽しんでもらいたい」という思いから続けてきたものでもあります。

evoliaでは、こうした江戸から続く広告文化や日本の表現資産を、過去のものとして保存するだけでなく、現代の事業やマーケティング、そして国際的な文脈の中でどう生かすかを考え、実践しています。
具体的には、大相撲の海外公演に関わる事務局運営、歌舞伎をはじめとする伝統芸能の企画運営支援、伝統工芸のリブランディングなど、日本文化を軸にしたプロジェクトにも取り組んでいます。

蔦屋重三郎がそうであったように、文化は「守るもの」であると同時に、「編み直し、届け直すもの」でもあります。
この連載が、そのことを感じていただくきっかけになっていたとしたら、これ以上嬉しいことはありません。

約1年間にわたり、本連載を読み続けてくださった皆さまに、心より感謝申し上げます。
もし、江戸時代の広告や引札、日本文化を活用した企画、ブランディングやプロモーションにご関心がありましたら、ぜひお気軽にお問い合わせください。
蔦屋重三郎がそうであったように、文化と商い、物語と価値をつなぐお手伝いができれば幸いです。

 

増田コレクション

〜日本の広告史を物語る貴重な資料群〜
 
弊社では、江戸時代以降の16,500点にものぼる引札・チラシのコレクションを保有し、その文化的価値を次世代に伝える活動を行っています。ぜひ、コレクションをご覧いただき、その魅力を感じてください。
 

Tokyo Tokyo(東京おみやげプロジェクト)について 
https://tokyotokyo.jp/ja/action/omiyage/

江戸時代から明治時代に使われていた「引札(宣伝用チラシ)」には、当時の日本の文化や暮らしが色濃く反映されています。私たちは、この歴史的に貴重な引札のデザインを現代に活かすため、東京都が進める「東京おみやげプロジェクト」に参画し、伝統的な日本の魅力が詰まった商品の開発と販売を行っています。

東京都と民間企業が共同で開発した伝統的な工芸品から文房具、食料品など、東京旅行の思い出をもっと楽しくするアイテム「東京おみやげ」のPR・販売拠点「# Tokyo Tokyo BASE」(羽田空港)で販売しています。

引札の魅力や現代の広告や商品開発に引札のエッセンスを取り入れたい方は、お気軽にご相談下さいませ。